おはようございます。
無事、夜を乗り切れたようです。
今朝もニュースやネット上では、中国についてさまざまな意見が飛び交っています。
経済、外交、軍事、安全保障・・
どれも大きなテーマですが、画面越しの情報だけを追っていると、どうしても「巨大で単一の国家」として語られてしまいがちです。
でも、実際にその土地を歩いてきた身としては、すこし違う景色が浮かびます。
■ 私が見てきた中国の景色
大連の海沿いを散歩した朝は、観光地というより生活の場で、犬を散歩させる人や朝市へ向かう人が静かに行き交っていました。
北京では、乾いた冬空の下で食べた羊肉串の香りや、胡同の路地裏に残る生活の風景が印象に残っています。
上海の外灘は光にあふれた国際都市で、蘇州は水路に舟が滑る静かな時間。
広州の市場は声が止まらず、果物や香辛料の匂いが混ざり合い、香港はネオンと湿った空気が夜まで続いていました。
どれも「中国」という一言ではまとめられない、多様な日常・・

■ 台湾にも、別の輪郭があった
台北の夜市では、屋台の人が自然に声をかけてくれるあたたかさがあり、
台南では古い街並みに時間の積み重ねを感じました。
台中ではカフェ文化の広がりに驚き、花蓮は風がゆっくり吹き、旅を急ぐ自分が少し恥ずかしくなるほど。
台湾は中国と比較する対象ではなく、それ自体でひとつの世界・・

■ 行ったことがないまま語られる言葉
ネットで中国について語られる言葉を見ると、時々こう思うことがあります。
「その景色、実際に見たことがあるのかな?」
別に行った人が偉いわけではありません。
ただ、現地で暮らす人を目の前にすると、言葉が自然と穏やかになります。
批判するにしても、断言するにしても、相手に向かって話す感じになるからです。
知らないまま世界を語ると、世界は平面のまま。
歩いた景色を知ると、急に立体になる。
■ 世界を理解する前に、まず地面に立つこと
世界を知ることは、情報を集めるだけでは終わりません。
空港の匂い、屋台の湯気、路地の生活音・・
そうした小さな断片が積み重なると、国名ではなく「そこで暮らす人」が浮かび上がってきます。
強い言葉よりも、まずは現地に立つこと。
旅は、意見を決めつけるためではなく、視点を増やしてくれるものなのだと思います。
■ あとがき
あれこれ意見が対立する時代ですが、どちらが正しいかより先に、
「あなたはその景色を本当に見たのだろうか」
と立ち止まる余地があるだけで、言葉は少し優しくなる気がします。
ひょっとしたら、今の首相は台湾は行ったことあるが、中国本土には行ってなかったり・・
世界はニュースの中だけにあるわけではなく、
私たちが立った場所、出会った人、歩いた道の中にもあります。
情報量の少ない人は、極論を語る・・
と、マルちゃんも申しております。